要らないなって手放してきたもののひとつによくある形としての友達形式のつながりがあって、
なんでだったか忘れたけど向かないなとか馴染めないなってのがあった記憶がある
いじめられて過ごしてきた学生時代だったし、数少ないクラスメイトとかも深く仲良くなれる相手は結局できずに、好きだけどなんとなく居心地が悪くて1人の時間の方が心地よいだとか落ち着くだとかってのを思いながら10代を過ごしてきたと思う
1人で過ごすことに然程の不自由を感じずにいられたのはツイッター上には広く浅い人付き合いが存在してたからだろう
ツイッター上ではいつの時期においてもどこかしらのコミュニティに属していたけど、その環境下ですらも集団としての共通項以外の繋がりを集団内の誰かと構築して特別親しくするという経験はなかった
そういうふうにして薄ぺらい寂しさと他の人たちとの違いみたいなものを繰り返し実感するたびに「向いてないんだろうし手段もわからんからまあ良いか、無理して疲れるよりこれはこれで自分の在り方だ」と解釈して飲み下すようになった
それでも未だにいつのまにか仲良くなってるコミュニティ内の誰某と誰某の会話を見てなんとも思わないわけではない
「……」ってなったあと「じゃあ自分はこの人とDMでやり取りとかしてた時もっと仲良くなりたいと思ったか?必要事項をやりとりする以上の会話をするのは面倒だなと感じていたはずだからその羨ましさは不適当ではないか?」という考えに至り「うん、これが最適解」で落ち着く
これが一連の流れ
勝手な解釈で言い訳するとするなら“口数の多いADHDでありながら相互コミュニケーション能力に問題のあるASD”みたいな最悪タッグが自分の中で組まれていて、それが矛盾をうんでいるとも言える
長くなりすぎたけどここまでは前置きの話(?)で、
友達付き合いの形についてはある程度自分の中で形が定まっているので今更不自由することはあまりない。
が、殊恋愛関係においてはそうではないというのが目下の問題で、こちらについては未だにヒトトオナジとかフツウとかに思わずこだわってしまって必要のないアタリマエ(だと勝手に認識しているもの)を手放せずにいるのが現状だ
それをどう解決していくか模索していく必要がある
おそらくだけど、好きだった彼とちょっと特殊な関係にある今だからこそでき得ることも多いと思うのでこの機を流すことは惜しい
話すの面倒になってきたから雑に締める
めんどくさいけどこれから先の自分とその他の人たちのためにも頑張らねばならない 以上
追記
いちばん新しい元恋人との関係を経て気づいたことは、おそらく自分のこだわる“シアワセ”とはパートナーとの関係で得られる充足感ではなく、よく描かれる形としての恋人関係の形を自分も遂行できる人間になれるかどうかが肝であろうということ
その自分の中の“こういう風に”にこだわりすぎることは自分にとっては不適合で腐らせるものだから何は残して何は捨て置いていくかを選択していく必要がある
2022.1.24