なんで生きてるんだろうと思うことが多々ある。
『死に際、生きてて意味なかったなと思わないように』とわたしは或る人に話したけど、日常そんな自分のある種のポリシーからも目を逸らしただ時間が過ぎていくのを待っている。
簡単に手に取れるものだけで身の回りを固めて殻に閉じこもっている。
昨年までの3年間は私にとって強烈なターニングポイントだった。多くの変化があったように思う。
この先どうやって残りを生きていこうかと不安に駆られる。
はやく、ポッと死んでしまえればいいのにとぼんやり思う。一生懸命に生きてもいないから、死にたいとも思わない。受身の姿勢が変わることはない。
これではどんどん周りとの差が開いていくだけだと、私は私を救わねばならないと思い立って古本屋に行った。何か、何でもいいからきっかけがあればと思って。行動の動機としては“思考の整理学/外山滋比古”にある「発酵」「カード•ノート」を読んだことに端を発すると思う。
まあそれは余談で、それで喜ばしいことに私は古本屋で出会いたかったものと出会えた。
“死ぬまで生きる日記/土門蘭”の帯にある『なぜ自分は毎日のように「死にたい」と思ってしまうんだろう、という問いは、裏を返せば、なぜ自分はそれでも生きているんだろう、という問いでもある。』という一節にドキッとした。心臓がドクンッとなった。
自分はどうなのだろうかと。「死にたいと思わない。でもなぜ生きているのだろうか、こんな人生はやく終了してくれていいのにと思う。」これに隠されているものに目を向けるきっかけだった。
「なぜ生きてるのかわからない早く終わればいいのに。じゃあ死のう!」にならないのはなぜか?何に執着しているのか?何を諦められないのか?
或る人が指摘した。『君は誰かと幸せになりたい人だ』と。
今までいろいろなことから目を逸らしてきた。いろいろなことを怠ってきた。
失敗も緩急差も劣等感も怖くてハナから何もしてこなかった。だから“誰かと”幸せになりたかった。担保されたかった。
或る人との関係の終盤、「わたしは我が身を自ら救えない人間がどうして他人を幸せにできるというのか」と思った。
それは自分が相手を思ってやってるつもりの多くのことが相手のことを蝕んでいたのではないかという可能性に遭遇したがゆえの気付きである。
そんなこともあって、誰のことも蝕まず、どうせ生きてる意味がないと思うならなら自分で死んでしまおうと思えるくらい勢いとパワーのある生活をしたいと、そういう人生に舵切りをしたいと思った。「それでも生きてる理由」を探して大切にして、それらを糧にやっていけば、人生はもう少し晴れるのではないか。